新居関所は2度移転していた
東海道を西へ進むと、新居宿の入り口は新居関所です。
浜名湖はかつて淡水湖で、浜名湖から遠州灘に注ぐ浜名川がありました。明応7年(1498)の大地震、そして津波、大雨による土砂で浜名川を堰止め、今切口が決壊し、海とつながりました。それ以降、船で渡る区間となりました。

大元屋敷跡(元新居)
江戸幕府の防衛のため、「関所」が創設されたため、新居宿の入り口が新居関所になります。
慶長5年(1600)に設けられた新居関所は「大元屋敷」にありました。現在のヤマハ発動機新居事業所付近で、向島でありました。
そこから西方面に城町・中町・西町があり、約600軒の町並みがありました。現在はホルト通りと呼ばれる道路です。

ホルト通り
元禄12年(1699)の災害で「中屋敷」(現在の新居高校付近)に移転しましたが、宝永4年(1707)の大地震により壊滅したため、現在の位置に移転しました。
新居高校北側にある「堂頭の松の石碑」は航路の標識で、かつてこのあたりまで海岸があったようです。

堂頭の松

新居関所
新居関所の構造
現存している新居関所は、嘉永7年(1854)の地震で倒壊した後、建て替えられたもので、関所の遺構としては全国唯一です。昭和30年に国の特別史跡に指定されてます。
関所の東側は、JR新居町駅や住宅地が存在してますが、当時は浜名湖です。
入口には、渡船場護岸が一部現存しており、南側に行くと船囲場跡があります。

東から見た関所

渡船場跡

船囲い場跡
関所の目的は「入り鉄砲に出女」と言われるように、武器や女性に対して厳しい取り調べを行います。 「面番所」に役人が出勤し常駐し、毎日睨みをきかせていました。
不審な女性は、2名の改女に厳しく取り調べられます。「女改之長屋」は改女の家族が住んだ建物です。無事に通過できれば「大御門」から宿場町に入っていきます。

面番所の外観

面番所

女改之長屋

大御門
新居関所は幕府直轄地でしたが、元禄15年(1702)に吉田藩の管轄となってます。
新居の宿場町は栄えていた
新居の宿場町には本陣が3軒、旅籠が26軒ありました。
当時の人口は3474人。関所の役人が怖かったのか知りませんが、
人口の割には旅籠が少ない宿場町でした。
本陣は現存していませんが、旅籠「紀伊国屋」は現存しており、入場可能です。
大御門付近の「高札場跡」は復元されてます。

高札場跡

旅籠「紀伊国屋」

紀伊国屋の室内

本陣跡

新居の一里塚跡

棒鼻跡
西の見付にあたる「棒鼻跡」までに「新居の一里塚跡」があります。
かつては「橋本」に宿場町があった
浜名湖が淡水だった中世は、浜名親水公園付近に「橋本宿」がありました。
平安時代の資料によれば、浜名湖から遠州灘に注ぐ浜名川に、「浜名橋」が架けられておりました。長さ約170メートル、幅約3.6メートル、高さ約4.8メートルの木橋で当時の橋としては日本屈指でした。富士山や田子の浦などのように歌枕として広く知られるようになって、
藤原為家や阿仏尼、源頼朝なども歌を詠んでおり、歌碑が建ってます。当時は「橋本宿」と呼ばれていました。

源頼朝の歌碑

東福寺
新居宿の祭り

諏訪神社
毎年7月下旬に諏訪神社で行われる手筒花火は東海道随一の奇祭と呼ばれ、手筒を抱えた男が火の海に乱舞します。この手筒花火は、江戸時代中期(1684〜1688)には行われていたそうです。
諏訪神社は当初、「景行天皇」が745年に創立した新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として「猿田彦大神」を奉ってました。元は浜辺に鎮座していましたが、宝永5年(1708)の大地震で現在地に遷座。天正年間(1590頃)、信州から移り住んだ井口嘉末なる者が、諏訪大明神の御分霊を合祀したことから「諏訪神社」と称するようになった。
感想