【東海地方の歴史めぐり】 長篠・設楽原の戦い「どうする家康4」

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今回は、東海地方の歴史巡りです。

愛知県新城市にある長篠・設楽原の戦いがあった長篠城周辺を写真撮影してきました。

目次

長篠城をめぐる攻防

長篠の戦いは天正3年4月21日(1575年)に武田勝頼率いる武田軍が15000人の兵を率いて長篠城を取り込んだのが始まりです。

長篠城には家康側の城主奥平貞昌がわずか500人の兵を率いて籠城していました。

武田軍は総攻撃しかけ奥平軍は応戦しますが、食糧が底をつき始めので、家康の岡崎城に救援を依頼することにします。

しかし、この長篠城一帯は武田軍に囲まれ、救援を呼ぶことが困難でした。

この時活躍したのが、鳥居強右衛門です。

梅雨の時で、増水した豊川上流の寒狭川をおりて豊川を下って包囲をくぐり抜け、見事に救援要請することに成功しました。

鳥居強右衛門は、一刻も早く報告したいため長篠城に戻ります。

しかし、それが仇となり、途中で武田軍に捕らえられてしまいます。

この時、強右衛門は、武田軍から「援軍は来ない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と叫ぶように強要されましたが、

強右衛門は「援軍は来るぞ。この目で見てきた、あと二、三日堅固に守れ」と叫びました。

これにより奥平軍は、気持ちがキレることなく数日持ちこたえることができました。

しかし、強右衛門は対岸の篠場野で磔にされました。

この話は、地元新城市では有名な逸話です。

今でも鳥居強右衛門を尊敬する人が多いと聞いてます。

そして、織田・徳川の援軍3万8千が設楽原に到着し、設楽原の戦いに移っていきます。

長篠の戦い見どころ 長篠城跡

長篠城の築城は定かではないが、16世紀初頭に菅沼元成が築いたと考えられてます。

天文15年(1546)に今川氏が遠江から三河に攻め、三河を支配しました。

この時菅沼氏は今川氏に従属しました。

永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川氏が敗死した後、家康が東三河を攻め入り勝利したことで、菅沼氏は家康に従いました。

元亀3年(1572)武田信玄が遠江を攻め入ると、奥三河の山家三方衆(作手の奥平氏、田峯の菅沼氏、長篠の菅沼氏)は揃って武田氏に従ったそうです。

翌年、武田信玄が死すと、家康が長篠城を包囲し、城を取り戻すことに成功し、これで長年城主を勤めた菅沼氏の時代が終焉しました。

天正3年(1575)2月、武田氏に叛いて家康に従った作手の奥平貞昌が長篠城の城主となり、同年5月、武田勝頼が長篠城を包囲し「長篠・設楽原の戦い」が始まりました。

長篠城址・史跡保存館
長篠城概要図
本丸跡
鳥居強右衛門


長篠の戦い見どころ 医王寺山城跡

医王寺は長篠城を築城した菅沼元成が開基したと伝えられています。

医王寺山城は医王寺の奥にある小高い山頂に築かれました。

天正3年(1575)武田勝頼が長篠城攻めの際、陣を築かせた陣です。

標高約120mで見晴らしがよく、長篠城から見れば、監視されているように感じたでしょう。

医王寺
山門
物見櫓・医王寺山城跡
物見櫓から見る風景

設楽原の決戦

鳥居強右衛門の活躍があって、織田・徳川連合軍が設楽原に到着し、連吾川沿いに約2キロの馬防柵を築きました。

一方の武田軍は本陣が置かれていた医王寺で軍議を行い、武田軍に勝算ありという結論に至った勝頼は設楽原に陣を遷すことを決断しました。

翌20日、鳶ケ巣山や長篠城の周辺に一部の兵を残し、武田軍は寒狭川を渡り、設楽原へと陣を構えました。

この決断が誤りでした。

武田軍の布陣の様子を見た織田信長は、家康と酒井忠次を呼び、長篠城の対岸にある鳶ケ巣山への奇襲攻撃をかけるよう命じました。

酒井忠次は3000人を率いて、家康の本陣である弾正山を出発、鳶ケ巣山を急襲しました。

鳶ケ巣山での戦いを知った勝頼は連合軍に向かって突撃することを命じます。

ここから設楽原の決戦が始まります。

決戦場となった設楽原は織田・徳川連合軍が陣地を置いた弾正台地と、武田軍が陣地を置いた信玄台地に挟まれ、その中央は連吾川に流れ、その両側は田が広がっていました。

武田軍は連合軍に対して、鉄砲や矢を射かけて突破口をつくり、あぜ道や街道を辿りながら連合軍への攻撃を開始します。

一方、連合軍は静かに馬防柵の背後に控えていました。

武田軍の第一陣が連吾川に差し掛かった時、鉄砲隊が武田軍に向かって3,000丁の火縄銃を放ち、武田軍の将兵はバタバタ倒れたそうです。

それでも火縄銃による攻撃が止むと、それらの将兵を乗り越えて、武田軍は攻撃し、何度か繰り返されたそうです。

連吾川の上流では武田軍の馬場信房が700人の兵で織田方の佐久間信盛を、武田軍の内藤昌豊は1000人の軍勢で、織田方の滝川一益3000人を柵内に追い込みます。

また連吾川の中ほどでは、武田軍の軍師である山県昌景は1500人の兵で徳川軍に攻め込み、柵内に突入します。

そして馬防柵が築かれてない連吾川の下流へ回り、徳川軍の背後から攻めようとしました。そこで大久保忠世、忠佐兄弟と9度も渡り合ったと言われています。

この戦いは約6時間続きましたが、戦局が大きく動いたのは山県昌景の戦死です。

山県昌景の死によって山県隊が崩れ、武田軍全体に同様が広がっていきました。

また内藤昌豊・土屋昌次など名だたる武将が次々と討死し、武田軍は退却します。

この激しい戦いで、武田方10000人、織田・徳川連合軍方5000人が戦死したと言われてます。

多くの戦死者を埋葬した場所は、やがて信玄塚と呼ばれるようになった。

信玄塚では戦死した武田軍を供養するため、毎年お盆の夜に「火おんどり」という祭りが行われています。


設楽原の戦い見どころ 設楽原歴史資料館

設楽原の戦いの多くの文献や資料があり、また日本一多くの火縄銃が展示されてます。

また周辺には信玄塚や数多くの武田軍の武将の墓があります。

設楽原歴史資料館
信玄塚
火おんどりの説明

設楽原の戦い見どころ 設楽原古戦場

周辺は当時と同様、連吾川の両側に田が広がってます。

当時と同じような地形で、戦国時代の名残を感じます。

馬防柵
弾正台地と信玄台地間にある連吾川付近
徳川家康の本陣地
家康物見塚

その他の見どころ

長篠城・設楽原のある奥三河地域には、この他にも鳳来寺山もあります。

鳳来寺は家康の母君、御大の方がお世継ぎができない事を憂い、御祈願に訪れてます。

そして後に御出産されたのが家康公です。

3代将軍の家光が、家康公をお祀りするため、鳳来寺に東照宮を建立しました。

鳳来寺は車でも行けるそうですが、登山の初心者コースになっているのでお薦めです。

歴史好きおすすめ度

項目評価
場所
長篠城は電車でも行けますが車向きです。
駐車場
どちらも駐車場があります。
人気
大河ドラマの影響もあり人気スポットです。
食事
周辺にあります。道の駅もっくる新城がおすすめです。
歴史好き満足度
家康や信玄に興味がある方なら楽しめます。
総合評価
非常に満足です。

感想

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